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東京地方裁判所 昭和42年(刑わ)5930号 判決 1967年7月19日

主文

被告人両名はいずれも無罪

理由

第一検察官および被告人ら・その弁護人の主張の要旨と主たる争点

一本件公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は、被告人村上覚は、日活株式会社取締役配給部長として、同会社における映画の買い入れ、配給等の業務を担当しているもの、被告人武智こと川口鉄二は、映画の製作、監督等を業とするものであるところ、被告人両名は、山口慎蔵ほか数名のものと共謀のうえ、昭和四〇年六月五日午後九時ごろから翌六日午前五時五〇分ごろまでの間、三回にわたり、日活株式会社直営の東京都新宿区所在新宿日活劇場において、たとえば、(一)売春宿の一室で、裡の黒人兵と売春婦ユリとが同きんする場面、(二)売春宿の一室で、外国人の男が売春婦となつた皆子の水揚げを行なう場面(三)映画館内の客席において、次郎が静江の不半身に手をふれ、静江が目をとじ、首を左右に振りながら、長くあえぎもだえる場面、(四)売春宿の一室で、次郎の友人黒瀬に犯された静江が半狂乱となり、全裸のままで戸外に飛び出し、基地周辺を走る場面、(五)次郎、黒瀬、山脇の三人の男が次郎の叔母由美の経営するバーを襲つて、同女を犯す場面、(六)売春宿の一室で、売春婦英子が次郎に乳首を吸わせる場面など、男女の性交および性戯の姿態を連想させる場面や女性身体の裸像を露骨に撮影した猥褻映画「黒い雪」(全九巻)を映写して、これを醍醐秀輝など約二、七一一名の観客に観覧させ、もつて猥褻図画を公然陳列したものである、というにあり、検察官は、被告人両名の右所為は、刑法第一七五条前段、第六〇条に該当する旨主張している。

二<略>

三本件の主たる争点

したがつて、本件においては、

1  被告人両名は、本件劇映画「黒い雪」の上映に関して(かりに右映画が刑法上の猥褻図画にあたるとしても)責任を負うべき地位にあつたか、どうか、

2  本件で取り調べた映画「黒い雪」フィルム(全九巻、昭和四一年押第一、〇五一号の一四)の証拠能力の有無、

3  本件劇映画「黒い雪」が、刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画」にあたるかどうか

の三点が、おもな争点と考えられる。

当公判廷において適法に取り調べた各証拠を総合すると、本件公訴事実のうち映画「黒い雪」の上映が刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画ヲ公然陳列シタ」所為に当るものかどうかの点を除くその余の事実については、おおむねこれを認めることができるので(ただし、検察官が本件映画「黒い雪」の内容をあらわす例示として掲げた(一)ないし(六)の場面の表現が、その各画面を表示するものとして、全面的に適切であるとは考えない。)、当裁判所は、前記の争点のうち、1、2、については、結局、これを積極に解するのであるが、以下、第二において、当裁判所が認定した関連事実を、前記争点に関する判断の説明に必要な限度で判示し、第三において、当裁判所のこれら争点に関する見解、判断を明らかにして、被告人両名を無罪とした理由を説明することとする。

第二当裁判所の認定した事実

一<略>

二映倫管理委員会および本件劇映画「黒い雪」の同委員会における審査について

1映倫管理委員会の前身である映画倫理管理委員会は、映画製作業者等を中心とする日本映画連合会により、昭和二四年六月一四日設立されたもので、製作・配給会社等映画業界関係者を構成員とし(ただし、当時輸入外国映画の相当部分を占めていた米国メジヤー系映画会社関係者はこれに参加しなかつた)、第二次大戦後国家による検閲制度(活動写真「フィルム」検閲規則、映画法等)が廃止され、表現の自由が憲法上の保障を得たことにかんがみ、映画形式による表現の自由を守るとともに、観客の倫理的水準を低下させるような内容のものを自主的に排除することを目的として同時に制定された映画倫理規程の管理運用にあたつていたものである。その後社会情勢の推移に応じ、かつ、社会の批判に対してより適切にこたえるためには、製作・配給会社等映画業界から、ある程度独立した公正な機関により映画倫理規程を管理するのが適当であるとの意見が強くなり、昭和三一年一二月、そのための機関として映画倫理管理委員会を改組した映倫管理委員会(委員長高橋誠一郎のほか有識者四名を委員とする)が設立され、同時にこれと協力して映画倫理規程と映倫管理委員会を維持する機関として、映画の製作・配給・輸入等に関係する業者の多数(当時四五社)によつて構成される映倫維持委員会(委員長大川博)が発足した。現行の映画倫理規程は、昭和三四年八月一〇日、映倫維持委員会により制定されたものであるが、その具体的運用は映倫管理委員会にゆだねられていて、映倫管理委員長指示(昭和三四年九月三〇日付)などがその指針となつている。映倫管理委員会の運営に要する財源は、映画の審査料であつて、昭和四〇年六月当時、長篇劇映画については、審査完了時のフィルム一メートル当り二六円と定められていた。右基準額は、映倫管理委員会の申し出により、映倫維持委員会が決定している。映画倫理規程の前文中には、映画が娯楽として、また芸術として、国民生活に対し、きわめて大きな倫理的影響を及ぼすことについて重大な責任を自覚し、かような自覚に基づいて、観客の倫理水準を低下させるような映画の提供をきびしく抑制する目的をもつて、映画倫理規程が制定された旨が明示されている。また映画倫理規程のうち、本件映画「黒い雪」の審査過程で特に問題となつた性および風俗に関する部分は、つぎのとおりである。

六、性および風俗

1  性関係の取り扱いは、結婚および家庭の神聖を犯さないように注意する。

2  売春を正当化しない。

3  色情倒錯または変態性欲に基づく露骨な行為を描写しない。

4  性衛生および性病は、人道的または科学的観点から必要のある場合のほかは素材としない。

5  性愛的行為および性的犯罪は、たとえ間接的描写であつても取り扱いに慎重を期する。特につぎの事項の表現に注意する。

(イ) 寝室の描写、または凌辱描写は観客の劣情を刺激しないように十分に注意する。

(ロ) 猥褻な言語・動作・衣裳・歌謡・酒落等の表現を取り扱わない。またその暗示については慎重に取り扱う。

6  一般に隠蔽すべき習慣として認められる事柄の描写や、観客の嫌悪を買うような下品な描写を避ける。特につぎの事項には十分注意する。

(イ) 裸体、着脱衣、身体露出およびそれらによる舞踊。

(ロ) 全裸。

(ハ) 混浴。

(ニ) 性器。

(ホ) 排泄行為。

2昭和四〇年六月当時、映倫管理委員会は、委員長高橋誠一郎のほか、宮沢俊義、大浜英子、有光次郎の三委員によつて構成され、その下に庶務事項を取り扱う事務局と、管理委員に代つて、映画の審査を現実に担当する審査員とで組織されていた。審査員は、映倫管理委員長より、映画についての一般的知識および社会教育ならびに国際文化に理解ある者として、映画の審査を委嘱されたもので、当時邦画担当の審査員は七名おり、ほかに洋画担当者が三名、宣伝担当者が二名いた。邦画劇映画の審査は、製作者、配給者等の請求に基づき、通常、そのつど順番で決められた二名の審査員により、完成映画について行なわるものであつて、担当審査員により審査完了と判断されれば、それが対外的に映倫管理委員会としての審査の完了を意味し、改めて映倫管理委員らがみずから審査し直すわけではない。完成映画を対象とする正規の審査(本審査)のほか、製作者等の申請者側と、審査員等映倫管理委員会側双方の時間的経済的便宜等のため、脚本審査、オール・ラッシュ審査等映画が作品として完成される前に、予備的な審査を行なうこともあつて、これにより、審査員は、あらかじめ映倫管理委員会の意見を表明し、製作者等はこれを製作の参考とすることができるわけである。また、申請者が担当審査員による審査、判定に不服がある場合には、映倫管理委員長に再審査を請求することができ、この時には、第三者を含めた再審査委員会が組織されて再審査にあたる。他方、担当審査員は、当該映画の内容、審査状況等から判断して、二名の担当審査員のみによる審査を相当でないと考る場合には、邦画部門審査員全員や事実上、管理委員らをも含めた多数の者による審査を行なうよう申し出ることができ、ときには管理委員長がみずから判断して適切な審査方式を指示、勧告することもある。なお、映倫管理委員会の諮問機関として青少年映画審議会があり、映倫管理委員会は、映画のなかには、成人(一八歳以上)にとつては立派な芸術作品、娯楽作品として鑑賞しうるものであつても、青少年には個々の描写や題材の点で誤解を生じさせたり、好ましくない刺激を与えるおそれのあるものも存することを考慮して、担当審査員の報告に基づき、青少年映画審議会に諮問して成人向き映画の指定を行なうことがある。

3映倫管理委員会については、本件当時まで、その機構や審査判定の当否をめぐり批判的な向きもないではなかつたが、その廃止を求める声はごくまれで、一般にその活動はかなり高く評価され、特に、映画の製作・配給業者、興行業者からは、映倫管理委員会の判定は全面的に信頼されていたといつてよい。(環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律に基づいて、映画興行業者を含む全国興行環境衛生同業組合連合会等が定め、厚生大臣が認可した適正化基準では映画の上映制限の基準を映倫委の審査の完了の有無に求めている。たとえば、「組合は、上映映画の制限を行なう場合には、組合員をして、映倫管理委員会の審査に合格していない映画を一般興行用として上映してはならない。」と定めた全国興行環境衛生同業組合連合会適正化基準第一〇条、「東京都の地域内に営業している組合員は、映倫管理委員会の審査に合格していない映画を一般興行用として上映してはならない。」と定めた東京都興行場適正化規程第四条など。そして、このような映倫委への社会的信頼のため、その審査に合格しない映画が一般劇場で上映されることはほとんどなく、また、これまでに映倫委の審査に合格した映画を上映したことについて、刑事訴追をうけた事例はない。ただし、一不良業者が映倫委の審査に合格したフィルムと合格していないフィルムとを合せて一本の映画とし、すべて映倫委の審査に合格したもののようにして一般に公開上映したため、猥褻図画公然陳列罪に当るものとして訴追され、有罪の判決をうけた事例がある)

4被告人川口は、本件劇映画「黒い雪」の脚本を作成したのちである昭和四〇年二月二日ごろ、前記長島豊次郎を介して、映倫委に対し脚本を提出して右映画の審査を申請した。そこで映倫管理委員会は、右映画の担当審査員として、八名正(もと映画プロデューサー、当時四九歳)、荒田正男(もと映画脚本家、当時五七歳)の両名を決定し、同年四月二三日ごろ、被告人川口に対し、脚本により判断するかぎりでは、映画「黒い雪」には映画映倫規程に抵触するおそれのある部分が相当にあると考えられる旨伝え、具体的個所を指摘してその注意を喚起したのをはじめとし、担当審査員である八名正、荒田正男の両名の判断により、映画の撮影が終了した同年五月二一日ごろ録音のなされていないフィルムに基づくいわゆるオール・ラッシュ審査を同月二四日ごろ関係部分のみに関しいわゆる本審査を、それぞれ行なつて(このほか予告篇につき同年五月二六日審査している。)、被告人川口およびその補助者長島豊次郎らと意見を交換しながら、同被告人らに対し、映画倫理規程に抵触すると判断した部分の改訂を求め(そのおもなものは、性および風俗に関する事項についてのものであつたが、そのほか、一米軍人に対する「ゼネラル」という呼称は、映画倫理規程の「特定の個人の名誉を傷つけるような表現をしない。」に、主人公が米軍により銃殺されるような結末の表現は、裁判権に関する誤解をまねいて、日米両国の国民感情を害し、映画倫理規程の「あらゆる国の慣習および国民感情を尊重する。」などに、それぞれ抵触するおそれがあると判断して、これらについても改訂を求めた。)、八名審査員の出席した同年六月四日のいわゆる確認試写において、さらに一個所約二メートルのフィルムをカットさせたうえ、同日成人向き映画に指定することを予定して右映画「黒い雪」の審査を完了し、合格と判定した。

5映倫管理委員長高橋誠一郎は、映画「黒い雪」が右のように担当審査員の判断で映倫委の審査合格とされ、前記(第二の一、4)のように深夜興行・有料試写会の形式で一般観客に公開上映されたのちである昭和四〇年六月七日、日活本社において右映画「黒い雪」を観覧したが、その結果、右映画には、映画倫理規程、特にその性および風俗に関する事項に抵触する部分が少なくなく、これを放置したまま多くの一般観客の観覧に供することは相当でないと判断した。そこで、他の管理委員の見解を知るため、翌八日宮沢俊義、大浜英子、有光次郎らの管理委員にも右映画を観覧してもらつたのち、これら管理委員らと協議し、担当審査員らの意見をも聞いたうえ、同日上映権者である日活株式会社に対し、同映画の一般公開に際しては、同社で自主的に、その一部をカットしてもらいたい旨の申し入れを行なつた。日活株式会社では、ただちに、映倫管理委員長の意向を尊重する趣旨で、右申し入れに従つて右映画の一部分をカットしたうえで公開することに決め、被告人川口の一応の了解をも得たのち、映倫管理委員長らの意をうけた担当審査員荒田正男らの指示のもとに、一般観客に対し、卑猥感を与えるおそれがあると考えられた部分など一四個所につき、フィルムを切断して(長さにして計約二三二・八メートル)改訂するほか、二個所の録音を削除することとした。右フィルムの切断およびその後の接合作業は、右六月八日夜および翌九日、日活本社あるいは各劇場等において日活本社映写室技師紺野竜雄らにより行なわれ、その作業終了後、右切断接合後のフィルムによつて、映画「黒い雪」が一般観客に公開上映された。

三当裁判所が取り調べた映画「黒い雪」フィルム(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)について

本件の捜査は、昭和四〇年六月五日夜、新宿日活劇場において映画「黒い雪」を観覧した警視庁防犯部保安課風紀第一係主任醍醐秀輝らが、同月七日、右映画の上映は猥褻図画公然陳列罪にあたる容疑がある旨を上司である警視庁防犯部警部宮部保らに対し報告したことなどを発端として開始された。そして、警視庁防犯部保安課警部補柏瀬金は、同年六月一六日、東京簡易裁判所裁判官が発付した捜索差押許可状(同月一五日付)に基づき、新宿日活劇場より、当時同劇場で使用していた映画「黒い雪」の上映用フィルム(全九巻)などを押収し、さらに、同じく警部宮部保は、同じく同月一六日同裁判所裁判官から別に発付された捜索差押許可状(同月一五日付)に基づき、日活株式会社本社より、缶に納められていた映画「黒い雪」フィルムのうち前記(第二の二、5)自主カットにより切除されたフィルム片などを押収した。そして、警視庁防犯部において、自主カット前の映画「黒い雪」フィルムの復元をはかり、前記日活本写社写室技師紺野竜雄らの協力を得て、右新宿日活劇場で押収した一般公開用映画「黒い雪」フィルムの各自主カット個所に、日活本社より押収した切除フィルム片の各対応部分をそう入して接合し、一組の自主カット前の映画「黒い雪」フィルムを作成したが、いつたん映写取り調べたのち再び解体してしまい、一般公開用映画「黒い雪」フィルムと切除されたフィルム一四片とに分け、これらを東京地方検察庁に証拠物として送致した。そこで東京地方検察庁検察官は、同年一〇月六日ごろ、再び紺野竜雄らの協力を得て、右送致をうけた証拠物である一般公開用映画「黒い雪」フィルムと切断されたフィルム一四片とを対応させて接合し、一組の自主カット前の映画「黒い雪」フィルムを作成した(昭和四〇年東地領第一〇、二三〇号の一および一六)が、その際、目印のため各接合個所(計二八個所)に二ないし四コマ位ずつの無色(透明)フィルムをそう入したので、右フィルムは、観覧者におのずから自主カット個所を暗示して関心をひき、そのため特別の影響を与えるおそれがあつた。それゆえ、本件公判立会検察官は、そのおそれをなくすため、昭和四一年九月二八日の第三回公判期日において、改めて前記紺野竜雄らの協力を得て右無色フィルムを排除し、三たび一般公開用映画「黒い雪」フィルムと切除されたフィルム一四片とを直接接合し直したうえ、同日、本件公訴の対象である上映に使用された映画「黒い雪」フィルムに類似する映画「黒い雪」フィルムとして、その取り調べを請求した。当裁判所は、同年一〇月七日の第四回公判期日において、これを右趣旨、すなわち本件劇映画「黒い雪」と同一ではないが、類似性のある映画フィルムとして取り調べたうえ領置した(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)のである。右のような経緯から明らかなように、本件において証拠物として取り調べた映画「黒い雪」フィルム九巻(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)は、自主カット前の映画「黒い雪」フィルムが、一般公開用映画「黒い雪」のフィルム作成の際に一回、捜査段階で二回、公訴提起後証拠調べの請求準備の際一回、合計四回にわたり切断および接合された結果作成されたものである。そのため、右本件証拠物のフィルムは、自主カット前の映画「黒い雪」フィルムに比べ、一四個所の前後において理論上少なくとも計一九六コマ分(映写時間にして八秒強)が滅失していて、それだけ短縮されているものと考えられる(なお、この点につき、坂井弁護人らは、少なくとも五〇四コマ分滅失しているとし、岩村弁護人は一九二コマ分滅失しているとする)ほか、現実には、当初の自主カットの際の切断の手ちがいなどにより、更に相当数のコマが滅失していて、接合部分が連続性を欠いており、また、音と画面とが一致しない部分などもある。のみならず、元来本件公訴の対象である上映に使用されたフィルム、すなわち、昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場で、深夜興行・有料試写会の形式により一般公開された際に使用されたフィルムは、これをたまたま同劇場内で観覧した被告人川口自身が、そのフィルムの焼き方が悪く、画面が全体として暗くて、いわゆるぬけが悪いと感じたため、右映画の製作主任池敏行を通じ、技術担当者芥川和敏に対して、右フィルムの廃棄と、新たな焼き直しを命じ、右芥川らにより当時これに従つた措置がとられたので、すでに廃棄されるなどしてしまつて、現存しないのである。なお、その後の一般公開用映画「黒い雪」フィルムは、右の事情により右六月五日以後において焼き直されたものであるから、本件公訴の対象である映画「黒い雪」フィルムと、一般公開用映画「黒い雪」フィルムおよびこれを基礎とする本件証拠物のフィルムは、画面との明るさ、いわゆるぬけの点においてもおのずから多少異なつたものがあるのである。

第三当裁判所の見解および判断

以上認定した事実に基づいて、まず、前記(第一の三)した本件の主たる争点一および二、すなわち、被告人両名の本件映画上映に関する責任および本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルム九巻の証拠能力について記述し、ついで、本件劇映画「黒い雪」の猥褻性について検討しながら、右映画を上映した行為が刑法第一七五条にあたるかどうかの判断を示して、結局被告人両名が無罪である理由を説明することとする。

一被告人両名の本件劇映画「黒い雪」上映に関する責任について

被告人村上およびその弁護人らは被告人村上につき、本件公訴の棄却あるいは無罪の裁判を求め、その理由として、被告人村上が日活株式会社の配給部長として映画「黒い雪」の配給・上映権の買い入れに関与したことは事実であるが、買い入れの決定には、同被告人のほか同社の劇場部長古橋平、宣伝部長石神清、関東支社長壺田重三の三名も関与しており、上司である江守専務の了承も得ていて、同被告人は、単に買い入れに関する事務処理上の責任者であつたにすぎない。しかも、その四人の協議決定に基づき、映倫委の審査に合格することを条件として買い入れの契約を締結したのである。その後、現実に映倫委を通過した本件映画「黒い雪」について、公訴事実にあるように昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場などで、深夜興行・有料試写会の形式により一般公開することを決め、かつ実施した点の責任者は、日活株式会社の劇場部長である古橋平や宣伝部長である石神清、新宿日活劇場の支配人である山口慎蔵らであるから、かりに、本件映画「黒い雪」が刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画」にあたるとしても、配給部長である被告人村上には上映の責任を負ういわれがなく、そもそも被告人としての適格性がない旨述べている。また、被告人川口は、当公判廷において、同被告人は、単に本件映画を製作し、その配給上映権を日活株式会社に譲り渡したのみであつて、相被告人村上とは面識もなかつたし、本件劇映画「黒い雪」が、公訴事実のように昭和四〇年六月五日夜、深夜興行・有料試写会の形式で一般公開されたことについて何ら関与していない旨供述し、上映について責任がない旨主張するもののようである。

しかしながら、前記(第二の一、3、4)のように、

(一)  日活株式会社においては、その映画部門の営業政策の大綱は、事実上配給、劇場、宣伝の三部長と関東支社長の四者が協議して決め、その結論につき江守専務の了承を得たうえ実施されていたものであり、同社では、他社作品を買い入れることが、きわめてまれであつたため、この点に関する取り扱い責任機関が業務規程で明定されていなかつたが、事実上は、配給部がこれにあたるものであつたこと、本件劇映画「黒い雪」の買い入れについても、配給部長である被告人村上がその交渉を受けるや、前記古橋平、石神清、壺田重三の三名と協議してその賛同を得、江守専務の了承をも得たのち、配給部の責任において買い入れのりんぎ書や契約書の起案を行なつたものであること、

(二)  製作者が映画の配給上映権を配給会社に譲り渡し、配給会社が他社作品を買い入れるのは、映画が一般観客に対し公開上映されることを予定したものであることは、いうまでもないところであつて、昭和四〇年六月当時、有料試写会という形式あるいは土曜日夜の深夜興行という形式によつて映画を一般観客に公開上映することは特に異例なことではなかつたこと、被告人村上は、本件映画を深夜興行・有料試写会の形式で上映することについての協議にも参加していて、本件映画の上映は、右協議に基づいた実施細目に従つてなされたものであること、

(三)  被告人村上は、昭和四〇年六月五日、日活本社での業務試写を観覧することにより、また、被告人川口は、同月三日までの映倫委の審査に立ち会うことによつて、本件映画「黒い雪」の内容について十分了知していたことなどの事実によれば、被告人川口が日活株式会社によりなされた深夜興行・有料試写会形式の一般公開に関し、その企画にすら参加していなかつたことや、被告人村上が単に右上映方式の実施細目の決定に関与しなかつたこと、弁護人らの主張するように劇場付近で火災が発生した場合などに、映画上映の適否を個別決定する責任者は、日活直営館においては劇場部長であることなどの事情があつたとしても、そのため、被告人両名が本件公訴の対象となつている新宿日活劇場での劇映画「黒い雪」上映につき、法律上責任を問われる地位になかつたとすることはできず、被告人としての適格がないものとはとうていいえない。いいかえれば、右上映については、被告人川口(形式上はしのぶ興業株式会社)と被告人村上を中心とする日活株式会社との間に、映画「黒い雪」の配給上映権売買の契約が成立した時点より、現実に昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場(支配人山口慎蔵)で映写されるまで、計画が順次具体化され、発展していつたものと考えられるのであつて、被告人両名のみでなく、前記駒崎秋夫、古橋平、石神清、壺田重三、江守清樹郎らも、その上映につき共同して責任を負うべきものであるが、そのため、被告人川口はもとより被告人村上も責任を免れるものではなく、結局被告人両名らのこの点に関する主張は理由がない。なお、坂井弁護人は、会社の一社員が会社の目的にそつて合法的に行なつた行為がかりに法に触れたとしてもその責任者は行為者ではなく、会社であり、またその責任を負う者は、会社の最高責任者ひとりであると考える。すなわち、かりに被告人村上が本件映画「黒い雪」の上映に事実上関与していたと認められ、しかも右映画が猥褻図画に該当するとした場合にも、配給部長にすぎなかつた被告人村上にはその責任がない旨主張するようである。しかし、いわゆる自然犯については、性質上法人は犯罪行為能力を有しないのが通例であり、また、その業務の執行に関し犯罪行為がなされた場合には、その刑事責任は、当該業務執行に関与従事した者が行為者として負うべきものであつて、その際、法人内での地位等により、期待可能性の欠如などが問題として考慮される場合があるにすぎないのである。したがつて、右の主張も、被告人村上の被告人適格の問題ではなく、とうてい採用することはできない。

二本件の証拠物「黒い雪」フィルム九巻(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)の証拠能力について

本件の審理において、当裁判所が取り調べた映画「黒い雪」フィルム(全九巻、昭和四一年押第一、〇五一号の一四)の成立経緯は、前記(第二の三)のとおりであつて、本件公訴の対象である昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場での上映の際の映画「黒い雪」フィルム(全九巻)と全く同一のものといえないのはもちろんのこと、同一視することのできないものであることも前示した両者の差異によつて明らかなところであり、当裁判所も右フィルム九巻を昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場で上映の際使用されたフィルムそのものではなく、これと類似したものとの立証趣旨のもとに証拠調べをしたものにすぎないことも前記(第二の三)のとおりである。そこで、被告人両名およびその弁護人らは、この点を強調し、1、本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルムの主要部分(すなわち、新宿日活劇場より押収された一般公開用映画「黒い雪」フィルム全九巻)は違法に収集されたものである。したがつて、本件の証拠物である右フィルムは、その基礎となつた一般公開用映画「黒い雪」フィルムの押収が違法であるから証拠能力がない。また、2、映画作品の猥褻性の有無を評価判断する際、場面の連続性や焼きの具合は、きわめて重要な意味を持つているのであつて、本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルムと公訴の対象である映画「黒い雪」フィルムとは同一性がなく、証拠としての許容性・関連性がないから、証拠能力を欠くものとして本件の証拠から排除されるべきである旨主張している。

1被告人らおよびその弁護人主張の右1の点について

前記(第二の三)のように、右一般公開用映画「黒い雪」フィルムは、適法に発せられた捜索差押許可状に基づいて押収されたもので、右許可状には被疑者氏名「堀久作」、被疑事件名「猥褻図画公然陳列被疑事件」、捜索すべき場所「新宿日活劇場」、差し押えるべき物「本件に関係ある映画『黒い雪』のフィルム、上映時間表、……」と記載されており、さらに、右許可状の発付請求書によれば、被疑事実は、ほぼ本件公訴事実と同旨で、昭和四〇年六月五日夜、新宿日活劇場で映画「黒い雪」を上映した行為を猥褻図画公然陳列罪にあたるとしたものである(ただし、被疑者として、被告人川口のほか、日活株式会社代表取締役社長堀久作、新宿日活劇場支配人山口慎蔵の三名が記載されている。)ことが、明らかである。右許可状の「本件に関係ある映画『黒い雪』のフィルム」との記載は、元来、押収の対象物を、本件昭和四〇年六月五日夜新宿日活劇場で上映された映画「黒い雪」フィルムあるいはこれと同一視しうるフィルムに限定した趣旨と解するのが相当であるから、右許可状により限定されたフィルムの一部を切除し、接合しなおして作成されたものである一般公開用フィルムを押収した手続には、全く瑕疵がないとはいえない。しかし、本件におけるように、少くとも前記(第二の二5)のような特殊な経緯から、公訴の対象である当該上映に使用されたフィルムおよびこれと同一視できるフィルムが存在せず、右フィルムを焼き直したうえ、一部を切除し接合しなおして作成された一般公開用フィルムのみが存在していて、しかもそのような事情がいまだ十分明確になつていなかつた時期における本件押収のような場合には、右押収手続の瑕疵は、押収された一般公開用映画「黒い雪」フィルムや、これに基づいて作成された本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルムの証拠能力を失わせるほどに重要なものとは考えられないのである。そして、他に、右許可状の執行手続に違法視すべき点もうかがえないのであるから、結局、押収されたフィルムを基礎として作成された本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルム(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)が、右押収手続の瑕疵ゆえに証拠能力がないとの主張は採用できない。

2被告人らおよびその弁護人主張の2の、右映画「黒い雪」フィルムの証拠としての許容性・関連性について

まず、関係証拠を検討してみると、映画「黒い雪」フィルムとして、つぎのものの存在することが認められる。すなわち、

(一) 映倫審査、特にその確認試写の際使用映写されたもの<証拠>参照

(二) 昭和四〇年六月五日日活本社で業務試写の際使用映写されたもの(<証拠>参照)

(三) 本件公訴の対象である新宿日活劇場で使用映写されたもの(<証拠>参照)

(四) 昭和四〇年六月七日日活本社で試写の際使用映写されたもの(<証拠>参照)

(五) 昭和四〇年六月八日日活本社で自主カット部分決定の際使用映写されたもの(<証拠>参照)

(六) 昭和四〇年六月九日以後新宿日活劇場などで一般公開の際使用映写されたもの(<証拠>参照)

(七) 当裁判所が一般公開用映画「黒い雪」として取り調べたもの(昭和四一年押第一、〇五一号の三四)(<証拠>参照)

(八) 捜査段階で警視庁において使用映写されたもの(<証拠>参照)

(九) 当裁判所が取り調べた本件の証拠物である映画「黒い雪」フィルム(昭和四一年押第一、〇五一号の一四)(<証拠>参照)

そこで、以上のうち、争点となつている本件の証拠物である前掲フィルム(九)の証拠能力について検討してみると、本件公訴の対象である昭和四〇年六月五日夜、新宿日活劇場で使用された映画「黒い雪」のフィルムおよびこれと同一視しうるフィルムは現存せず、かつ、再現もできないところ、これと右フィルム(九)との差異点がほぼ明らかとなつていて、右フィルム(九)以上に公訴の対象である映画「黒い雪」フィルムに類似したものを当公判廷に顕出することはきわめて困難であると考えられること、本件において公訴の対象である映画「黒い雪」の猥褻性の有無を判断する資料は、右フィルム(九)以外にも数多く存し、かつ、右フィルム(九)と公訴の対象である「黒い雪」フィルムとの異同につき言及している証人らの供述証拠もある程度存していることなどの事情を考慮すると、被告人川口らが特に強調するフィルム(九)と公訴の対象である映画「黒い雪」フィルムとの差異点は右フィルム(九)やこれに関する供述証拠等を検討する際に十分にこれを考慮すれば足り、その証拠能力までを失わせるものではないというべきである。したがつて、この点に関する被告人らおよびその弁護人の主張も採用できない。(なお、前記フィルム(八)に関する証人吉川政枝および同浦松佐美太郎の当公判廷における各供述などについては、前記フィルム(九)の生成過程の特殊事情のほか、右フィルム(八)には、自主カット部分の前後二八個所に各二ないし四コマ程度の透明フィルムがそう入されていたものであること―前記第二の三参照―を考慮にいれて評価判断すれば足りるものと考えるのである。)

三本件劇映画「黒い雪」の猥褻性について

1刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画」が、いかなるものをいうかは、法条の規定自体からは必ずしも明確とはいえないが、昭和三二年三月一三日の最高裁判所大法廷判決は、同条にいう「猥褻ノ文書」につき、従来の大審院、最高裁判所の判例を基礎として、その内容が、「いたずらに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」をいうとしている(最高裁判所刑集第一一巻第三号九九七頁以下)。すなわち、この判例は、猥褻とは何かということについて、「いたずらに性欲を興奮または刺激させる」効果のあるものであり、かつ、それが「普通人の正常な性的羞恥を害し」、「善良な性的道義観念に反する」程度のものであることの要件を掲げ、これらの要件を充足するものが刑法第一七五条にいう猥褻の概念に当るとしたものと解される。もつとも右はいわゆる訳書「チャタレー夫人の恋人」事件につき判示されたものであり、本件において猥褻性の有無が問題になつているのは、劇映画であるが、猥褻の概念そのものについては、この判決の示したところに従うのが相当であると考える。ただ本件において公訴の対象とされているのは、右のように劇映画の上映であるからその具体的適用にあたつては、映画のもつ特質をも考慮することが必要であると考えるのである。劇映画は、その発生当初から現在に至るまで、一般的に娯楽商品的要素の強いものであるが、他方、それが、芸術として、あるいは、思想の表現形式として現代に果たす役割も重視されねばならず、憲法はかような劇映画形式による表現の自由をも保障したものと解せられるから、刑法第一七五条の解釈、適用においても、それが恣意的となり、表現の自由を侵害することのないよう配慮することが要請されているのである。

2本件において、公訴の対象とされているのは、一般劇場で成人向き劇映画「黒い雪」を上映した被告人両名の行為についてである。

(イ) 映画の上映とは、映画フィルムを一定速度でスクリーンに映写し、観客に観覧させることにより成立する。映画フィルムの個々のコマが集積構成されて一つの場面を形成し、その個々の場面が集積構成されてはじめて一個の意味ある映画作品を形成するのであるから、その全映像は一体不可分のものとして考察されるべきである。また、その個々のコマや場面は、絶えず一定速度であらわれては消えていくのであるから、観客は、たとえば文書のように、ある特定の場面(画面やせりふなど)のみを、恣意的に静止させたり、くり返えさせたりして観覧するなど自由な選択が許されず、いわば、構成された全映像を、ある定まつた時間内にそのまま観覧することを強制されているわけである。それゆえ、ある映画が猥褻図画といえるかどうかは、これを全体として、しかも時間の流れのなかで評価すべきであつて、個々の場面も、常に全体との関係で検討される必要があり、部分的に切りはなして考えることは相当でない。したがつて、映画が猥褻図画といえるかどうかは、これを観覧した普通人のいだくであろう全体的印象、感想―それが個々人の印象、感想をこえたものであることはいうまでもない―に基づいて、判断すべきものである。

(ロ) つぎに、劇映画は、劇場において観客に対し映写されることを予定して作成されたものであるから、たとえば家庭内で観覧されるテレビジョンや街頭でべつ見しうる広告、看板等に比べ、観客の目的をもつた積極的参加行為が要求されるものであり、しかもその映写は、劇場という場に限定してなされるものであることを考慮する必要がある。(したがつて、劇映画を観覧する目的で一般劇場に入場した普通の観客が、ここでいう普通人であつて、それ以外に、特殊な目的で観覧する者や特殊な雰囲気の場所で観覧する者までを考慮することは相当でない。)

(ハ) さらに、本件では公訴の対象である映画「黒い雪」は、前記(第二の一4、第二の二5)のように、成人向き映画に指定されていて、一八歳未満の青少年の観覧が予定されていなかつたものであることも注意すべきであろう。(刑法第一七五条の解釈、適用に当り、精神的身体的に未成熟で性的刺激にも敏感な青少年に与える影響を重視する見解も少なくないのであるが、入場者に年齢制限があり、その確認等が罰則等により興行業者に義務づけられていて、一般にこの制限が遵守されていたと考えられる本件の場合には、右のような見解を特に考慮することは相当でない。)

3各弁護人らは、映画が猥褻図画に当るかどうかの判断にあたつては、製作者の意図や映画の芸術的価値が重視されるべきであつて、本件においては、被告人川口の製作意図は観客の性的欲望を刺激するなどの点にはなかつたし、映画「黒い雪」は、芸術として高く評価さるべき作品である旨主張する。右主張が製作者の単なる主観的ないし独善的な製作意図をもつて猥褻性判断に優先するから、芸術作品は刑法的規制の対象にされえないとかを説く趣旨であれば、これが採用できないものであることは改めて論議するまでもないところであろう。しかし、普通人が映画そのものから客観的にうかがうことのできる製作者の製作意図(製作者の主観的ないし独善的意図と区別する意味が客観的意図とでも呼ぶべきもの)は、映画の全体的印象、感想を形成する重要な一要素であるから、それが映画の猥褻性判断の際に考慮さるべきものであることは当然であるし、普通人がその映画全体についていだくであろう印象、感想は、映画そのものが有する諸価値―芸術性、思想性という言葉でこれを表現するかどうかは別として―の総合的評価を要素とするものであるから、法的判断の際、その映画のもつ諸価値を無視できないことも当然である。そもそも刑法第一七五条は、たとえば映画等の作品が単に普通人の性欲を興奮または刺激させ、かつ、性的羞恥心を害するものであれば、そのすべてを猥褻図画等として刑法的規制の対象とし、その上映等を公権力により禁止・処罰しようとするものではないであつて(前掲最高裁判所判決の示すように、刑法は「すべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではなく」、「性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする」のである。)、その性的場面の描写がいたずらに性欲を興奮、刺激させ、社会通念上認容された限界をこえる程度のものであることを要件としているのであり、右要件の存否を判断するにあたつては、その社会的諸価値との比較考量が暗黙のうちにせよ、なされねばならないことが明らかである。

4つぎに、各弁護人らは、世間には、本件公訴の対象である映画「黒い雪」に類似した性的描写を含む映画がきわめて多く製作され、一般に公開されている旨主張している。映画の評価は、全体的になされるべきものであるから、特に他の映画作品との比較ということは容易でなく、単に個々の場面と場面とを比較してうんぬんすることは適当でない。たとえば二つの映画における男女の姿態の描写程度が形式的に酷似している場合であつても、背景となるときやところが異なることにより、観客がいだく印象は相当に異なるのである。しかし、ある映画が猥褻図画にあたるかどうかを判断する際、当該映画と他の映画との、表現方法や表現態様を全体的に比較することは不可能ではないし、必要でもある。そして一、二の例外的存在であつたり、きわめて一時的な風潮であると考えられる場合は別として、同程度、同種の表現方法や表現態様をとつている映画が相当数製作され、一般に公開されていて、しかも公権力もこれを放置している場合には、それは、単なる捜査官憲の取締態度の当否などの問題ではなく、社会一般の大勢が消極的にせよ、その程度の映画は、その上映を是認し、許容していることを示すもの―いわゆる社会的相当性の限界内において許されるもの―と考えるべきであつて、映画の猥褻性の判断が社会一般の普通人の印象、感想に基づいてなされるべきものである以上、その判断にあたり、右の点も十分考慮されるべきものとしなければならない。(本件においても、当裁判所は右の趣旨から、昭和三九年ないし同四一年に映倫管理委員会の審査を通過し、一般公開された映画のうち、スエーデン映画「歓び」((全一一巻、昭和四一年押第一、〇五一号の三一))、日本映画「鬼婆」((全八巻、同号の三二))、日本映画「胎児が開く」((全八巻、同号の三三、ただし、映倫委の審査通過時および一般公開時の題名は「胎児が密猟する時」))をそれぞれ映写して取り調べた。)なお、前記(第二の二、5)のように、本件公訴の対象である映画「黒い雪」のほかに、これを自主的にカットして作成した映画「黒い雪」があり、一般に公開されている。この一般公開された映画「黒い雪」は猥褻図画に該当しないとの公権的最終判断を経てはいないのであるが、その自主的カットの経緯から明らかなように、映倫管理委員会によつて、本件公訴の対象である映画「黒い雪」より一般観客に対し卑猥感等を与えるおそれが少ないものと判断され、捜査官憲においてもこれを放置しているのであるから、右一般公開用映画「黒い雪」は、本件公訴の対象である映画「黒い雪」の猥褻性の判断にあたり、考慮すべき一つの資料たるを失わないというべきであろう。(当裁判所は、その意味で一般公開用映画「黒い雪」と同じもの((昭和四一年押第一、〇五一号の三四))を取り調べた。)

5ところで、本件公訴の対象である劇映画「黒い雪」は、前記(第二の二4)のように映倫管理委員会の審査を通過している。各弁護人らは、前記(第一の二)のように、右の事実は、現代の社会通念を表象する映倫委が、本件映画に卑猥感を与える点がないものと判断していることを示し、かかる判断は尊重さるべきであるとともに、かりに、本件映画「黒い雪」が刑法上の猥褻図画にあたるとしても、被告人両名は右映画の上映にあたり、映倫委の判定を全面的に信頼したうえ、その合格判定のあと、これを上映したものであるから、違法性の認識を欠き、これを欠いたことに過失も存しなかつた場合か、その行為に出ないことが期待できなかつた場合であつて、その刑事責任は阻却されるべきである旨主張しており、他方、検察官は、一般的に映画倫理規程とその適用基準は適切であつたが、本件では担当審査員らがその具体的適用を誤つたものであり、また公権的機関ではない映倫管理委員会の審査が完了しているという事実は、単に情状として考慮されるべき問題にすぎず、被告人両名の刑事責任を阻却する事由とはならない旨主張している。映倫管理委員会の沿革、審査機構等については、さきに認定(第二の二1、2)したとおりである。映画倫理規程は、前記(第二の二1)のように、「映画が娯楽として、また、芸術として、国民生活に対しきわめて大きな倫理的影響を及ぼすことについて重大な責任を自覚し、……かような自覚に基づいて、観客の倫理水準を低下させるような映画の提供をきびしく抑制する」ことを目的として制定されたものであるから、その性および風俗に関する事項の解釈、運用と、公権力による最少限度の性的秩序維持を旨とする刑法第一七五条の解釈、適用とが、直ちに一致するものとはいえないし、また、自主的規制機関である映倫管理委員会の担当審査員らの判断が、猥褻図画に当るかどうかの点について、直接、裁判所の判断を拘束するものでないことは、いうまでもないところである。特に、映倫管理委員会が特定の映画について映画倫理規程に抵触するとともに、猥褻図画にもあたるような映画をそのまま通過させてしまう場合もありうることであろうし、映倫管理委員会の審査機構そのものが、審査員の構成等により、映画製作者や興行者のいわゆる「ロボット」と化している場合も考えられないこともないから、一般的には、ただ単に映倫管理委員会の審査を通過したとの一事を理由に、上映者の刑事責任が消失するものとはいえない。しかし、公判審理の結果、具体的に明らかとなつた前記(第二の二、1ないし3)のような事実関係のもとにおいては、映倫審査員の多くが現実にはシナリオ・ライター、プロデューサーなど映画製作に関与した経歴を有し、そのため審査態度が製作者らに好意的にすぎるのではないか、とか逆に、比較的高齢者が多いため、流動的な現代における映画製作者や観客各層の感覚を適確に把握できないのではないか、との批判もないわけではないが、製作者や興行者のロボット化している事実は認められないし、むしろ沿革的には、しだいに映画産業関係者からの独立性を強めているものと考えられるのであつて、本件審査当時まで、映倫管理委員会が映画倫理の確立につき自主的な規制機関として果たしてきた役割は高く評価されるべきものであろう。(もつとも、「あらゆる国の慣習および国民感情を尊重する。」とか、「特定の個人の名誉を傷つけるような表現をしない。」などの映画倫理規程の運用については、行き過ぎた規制となるおそれがないわけでもない。)そして、芸術としての映画が、比較的おくれて生れ、いまなお、その理論と現実の製作の面において発展しつつある段階であつて、その表現方法も多種多様かつ流動的であることを考えると、比較的豊富な経験に基づいてなされた映倫管理委員会の担当審査員らの審査経過とその結論とは、本件映画「黒い雪」の審査につき特別の事情の認められないかぎり、その猥褻性を検討する際の一つの有力な基準となるものというべきである。(そして、同時に、前記((第二の二、3))のように、社会的評価に裏付けられた映倫管理委員会の判断に対する製作者、興行者らの信頼関係のもとでは、かりに、特殊な事情により、その審査に誤りがあり、そのため、映倫審査に合格した映画が猥褻図画にあたると判断される場合であつても、その特殊な事情を知らず、映倫管理委員会の判断を信頼した上映者らは、いわば違法性の認識を欠き、かつこれを欠いたことに過失も存在しない場合、あるいは、他の行為に出ることが期待できなかつた場合であるとして、その刑事責任が阻却されるものと考える余地がある。このように、自主的規制機関として社会に果たしている役割の重大なことにかんがみれば、映倫管理委員会に対しては、それが映画製作者や興行者等映画産業関係者のロボットにすぎないのではないかとの疑念を与えることのないように留意するとともに、製作者、出演者および観客たるべき社会各層の意見を適確に反映し、表現の自由とこれを享受する権利を不当に制限することのないよう配慮して、今後より適切な審査機構と審査基準の確立のため努力することを期待したいのである。)

6そこで、さらに具体的に、本件映画「黒い雪」の審査過程を検討してみると、担当審査員(前記荒田、八名の両名)による審査の際、その性、風俗描写に関する映画倫理規程の該当事項の適用について、被告人川口と担当審査員らとの間で、意見の交換がくり返されたことは前記(第二の二4)認定のとおりであるが、そのため担当審査員が本件映画「黒い雪」の審査の取り扱いを他の映画と異にしたり、ことさら自己の意に反した判断をし、あるいは重大な過誤により通過させるべきでなかつたものを通過させてしまつたなどの点をうかがわせる特別の事情は認めがたいのである。検査官は、前記(第二の二5)した昭和四〇年六月八日の映倫管理委員会より日活本社への自主カット申し入れの事実などを理由に、担当審査員の審査、判断に過誤があつたと主張するのであるが、右の事実は、元来一致すべき映倫管理委員長、管理委員の見解と、担当審査員らの判断との間に、くいちがいがあつたことを意味するものではあつても、それにとどまり、それ以上に、右の事実から直ちに本件映画「黒い雪」審査の際の担当審査員の判断が、当時までの映倫委の審査の基準に反するものであつたとか、社会一般の考えを反映しないものであつたとか論ずることは相当でない。当時、担当審査員の仕事量が多かつたので審査に慎重を欠いたとか、数多くの審査を担当するうちに、映画倫理規程の適用が少しずつルーズになるなどというような見解も直ちにうけ入れることができないし、映倫管理委員会の審査機構が前記(第二の二、2)のように、二名の担当審査員による審査を原則としながらも、担当審査員、あるいは管理委員らから、必要な場合には、より適切な方法による審査を申し出て、行なうことができたものであるのに、本件ではそのような申し出は、いずれの側からもなされていなかつたこと、少なくとも管理委員長自身には、本件映画「黒い雪」にかぎらず、当時までの他の映画の審査結果についても担当審査員の判断と異なる見解をいだく場合が少なくなかつたことがうかがえることなどを考えると、本件発生当時まで、映倫管理委員会の審査判断として社会的に評価され信頼を得ていたものは、担当審査員の判断を基礎とする映倫機構全体の判断なのであつて、映倫管理委員長らの判断そのものだけではないのである。そして、本件映画「黒い雪」の審査において、右のような社会的信頼関係にそむくような映画倫理規程の特異な解釈運用が行われた事実や、これを間接的にうかがわせるような特別の事情は認められないのであるから、結局、本件映画「黒い雪」の担当審査員による審査経緯とその結論は、当時の他の映画の性的場面の描写態様やその程度、これら映画に対する観客一般の受けとり方が、おのずから理解されるので、本件映画「黒い雪」の猥褻性を判断する有力な一資料としての意義を失うものではないと考えるのである。

四結び

そこで、以上の諸観点に照しながら、本件劇映画「黒い雪」が刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画」に該当するかどうかを検討する。

まず、本件映画の描写内容を場面に即して検討してみると、右映画には、男女間の性交、性戯を直接露骨に描写表現した場面のないことはいうまでもないところであるが、同映画を普通人が観覧した場合に、検察官が(一)ないし(六)と例示した場面をはじめ、卑猥な連想を誘起するおそれのあるような男女の姿態や女性の全半身裸像を撮影した画面、性器・性交を暗に連想させるおそれのあるようなせりふなどを含む場面がかなり存することは明らかである。そして、その中には、たとえば、検察官例示の(四)の場面の一部(静江がほとんど全裸で基地周辺を疾走する場面)のように、映画全体の中での右場面の描写の必然性が比較的容易に感じられ、また、理解できる部分もあるが、反面、たとえば、検察官例示の(五)の場面(次郎、黒瀬、山脇の三人が次郎の叔母由美の経営するバーを襲つたうえ、黒瀬、山脇らが同女を犯そうとする場面)や同(一)の場面の一部(売春宿の一室で黒人兵と売春婦ユリが抱擁する場面)など、その描写が一般観客にかなりの卑猥感を与えるおそれがあると考えられる部分もあり、さらに、たとえば、黒瀬のバー内でのせりふや前記検察官例示の(五)の場面の一部のように、被告人川口の主張する本件映画の主題に照らしても、その必然性が判然とせず、同被告人らの当公判廷での説明も明快さを欠いていて、むしろ、同被告人が、一部の低俗な観客に迎合し、映画の商品価値を高める意図でそう入したものではないかと疑わしめるような部分も皆無とはいえない。しかしながら、このような性的場面の描写部分の多くは、性行為を享楽的に取り扱つているものでなく、むしろ否定的に描写したものと考えられること、―たとえば、前記検察官例示の(一)の場面においては、売春婦ユリの姿態を異様なまでに長く、ゆつくりと描写することによつて、むしろけん怠感、空虚感を観客に与えているし、同例示の(二)の場面(外国軍人が売春婦となつた皆子をサディスティックに抱擁する場面)においては、皆子の「お母さん、お母さん」のせりふにより観客に悲惨さのみを感じさせるものと考えられる。―あるいは、ジェット機の音などをそう入することにより観客に画面の背景にある米軍基地の存在をじかに想起させていることなどのために、むしろ性的場面の卑猥感が減殺され、結局、いたずらに性欲を刺激、興奮させるというようなところが比較的に少ないと考えられる。そして、さらに、本件映画から受ける全体的な印象、感想はどうかという点について考察してみると、被告人川口が主張するような反米民族主義の鋭利な訴えを普通人が感じ、または理解するものかどうかは別としても、この劇映画が一般観客の性に関するみだらな興味に訴えることを主調としたものではなく、その主題を、駐留米軍の基地に寄生する売春婦ら日本人の性格や行動のゆがみを描き、その生活の悲惨さを訴えたものとして感得理解することが容易であり、観覧後に残存する感興は、悲哀感や空虚感などであつて、性的な快楽感や性的羞恥感ではないのである。すなわち、本件劇映画には、部分的に卑猥感を与えるおそれがあると考えられる描写画面があるとしても、それは、この映画全体に支配的効果を形成するほどのものではないといえるのである。そして、その性的場面の描写も、右主題に伴うものとして許容される範囲を逸脱したものとまではいえない。(映画に対し個々人がいだく印象、感想は、各人の生活経験をも反映して多種多様であろうから、本件映画を観覧して、女性の裸映像等を売り物とする低俗無内容な作品とのみ感じるものや、羞恥嫌悪の感情が先き立つような観客の存するであろうことは十分に考えられるところであるが、以上の判断は、かような観客の存在を否定するものではない。)なお本件劇映画「黒い雪」と、ほぼ時期を同じくして一般公開された他の劇映画とを比較してみても、性風俗に関する個々の場面の描写の程度や態様において、また、作品全体を貫くその描写態度、描写方法において、本件映画とほとんど差異がないと考えられる映画が少なくないことがうかがえるのである。また、本件映画「黒い雪」と一般公開用映画「黒い雪」とを比較すると、後者では、その製作経過から当然のことながら、性的場面に関する画面やせりふが部分的に削除もしくは縮少されているが、他方その作業により、映画の構成において緊密性を欠くに至り、製作者の意図した主題の理解をより困難ならしめている面もある。(そのため、一般公開用映画のほうが、かえつて見る者をして卑猥感を感じさせる効果を生じさせていると評する向きもある。)そして、結局、猥褻性に関する法的価値判断の観点から考えるならば、両映画の間に結論を異にすべきほどの差はないものといえるのである。

これを要するに、以上のような諸事情を総合してみると、本件劇映画「黒い雪」は―右映画が芸術作品、思想作品として高く評価されるものかどうか、また、それとして成功したものといえるかどうかは別として―その上映を刑法上の処罰の対象としなければならないほどの猥褻性をもつものではないというべきである。したがつて、同映画は刑法第一七五条にいう「猥褻ノ図画」とはいえないので、被告人両名がこれを上映した行為は、結局同法条に該当せず、罪とならないから、刑事訴訟法第三三六条により、被告人両名に対し、いずれも無罪の言渡をする。(相沢正重 金子仙太郎 堀内信明)

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